退院するまで、ついにほかの親族と会うことはなかった。
別荘へ移ったのは、六月中旬のよく晴れた日。それまでは梅雨らしく、雨が降り続いていた。
時間がかかるからと、私が横になれる車が用意され、運転手は晧司さんの古い知り合いだという男性が務めた。春日雷斗と名乗った四十歳くらいの彼は、どこか、時代劇で殿様にお仕えする忍びのように思えた。晧司さんは、「当たらずといえども遠からず、だな」と笑った。途中、何度か休憩を入れながらたどり着いた山中。開けた場所に広がる広大な湖。そのほとりに佇む瀟洒な建物は、初めて見るのにどこか懐かしく感じた。
出迎えてくれたのは、私と同じくらいの年頃の、きりっとした雰囲気の女性。名前は明吉七華さんで、第一印象はくノ一。近寄りがたい美貌の持ち主だけど、私には親しみ深く笑いかけ、自己紹介をしてくれた。彼女は春日さんとともに、晧司さんに深く一礼し、私たちと入れ替わりに車に乗り、去っていった。「さて」
晧司さんは、私をさっと抱き上げた。荷物はすでに、中へ運び込まれている。 「疲れただろう」 「少し……でも、大丈夫です」 完全に、周りに誰もいない状態で彼と二人きり。病院は病室の外へ出れば大勢の人が働いていたし、ほとんど会わなかったけれどほかの患者さんもいた。毎日優しく励ましてくれたお医者様も。 ――今、本当に晧司さんと私だけなんだ。 わかりきっていた事実。開放的な外の世界へと出てきたのに、私は新たに閉じ込められようとしている。そんな考えが頭をよぎったけれど、彼の深い笑みに狂気や暗さは全く混じっていない。この人を信じる。信じたい。祈るような気持ちで、彼の肩につかまった。舗装されていない道路から玄関までは、なだらかなスロープ。七華さんが半分開けておいてくれた扉の中へと足を踏み入れた彼は、甘い声で囁いた。
「ようこそ、お姫様」 お、お姫様って。 咄嗟に返す言葉が出てこなくて、訳もなく恥ずかしさが込み上げる。彼はクスッと笑って私を静かに下ろし、上がり框に腰掛けさせた。病室で履かせてくれた靴を、今度は脱がせていく。 「あの……自分で、脱げます」 「わかっているよ。だが君は、この城の女主人だからね。かしずく者には素直に甘えているといい」 お姫様ごっこを続けるつもりらしい。彼の仕草には、従兄としての優しさだけでなく、恭しさもこもっている。 「晧司さんて、前から私をこんなに甘やかしていたんですか」そう、彼は私を正しく導き、支えながらも、尋常ではないほど甘やかす。心配しすぎた反動だろうか。入院中、お医者様や看護師さんにこっそり漏らすと、「嬉しいんですよ」と温かく微笑まれた。
「自覚はないが……君がそう感じるなら、そうかもしれない」 自分の靴も脱ぎ、再び私を抱えると、彼はとろけるような笑顔を見せた。ちょっぴり照れているみたい。少し自覚した方がいいと思うけど……今言っても無駄かもしれない。仕方ないなあ、と言いたい気持ちは顔に出ていたらしく、彼はますます幸せそうに笑った。晧司さんは、間取りを説明しながら私を運んだ。建物は横に長くて、玄関から伸びる廊下の右側には寝室が二つ。晧司さんのものと、奥は私のために用意させたという。廊下の左側には、晧司さんの書斎と、ゲストルームとしても使える和室。これらの四つの部屋の入口は、途中で左右に分かれて伸びる廊下に面している。 左右のどちらにも折れずまっすぐに進むと、右手にお風呂やトイレ、左手にキッチンを見ながら、リビングに出る。キッチンの向こうには、和室と向かい合う位置に洋室のゲストルームがある。ダイニングとほぼつながった形のリビングからは、光り輝く湖を一望することができる。 「素敵……」 感嘆のため息を漏らす。ここで過ごしたら、本当に、もっともっと元気になれそう。 彼はリビングで足を止めることなく、前方の階段へと進んだ。 「この別荘から見える、一番いい景色を見せてあげよう」 その言葉は、誇張でも自慢でもなかった。もうひとつのリビングからテラスへと出て、手すりのところまで連れていってもらった。彼の腕の中から見る世界の美しさに、言葉を失った。果てがないかのように思える湖。緑豊かな山々。おいしい空気。時々、澄んだ鳥の歌声が天空へと昇っていく。 ずっと私を抱えている晧司さんは、重そうな素振りを見せることもなく、息を飲んで見とれる私に付き合ってくれた。 「君は、ここにいるんだ。私と一緒に。いいね?」 鳥の声にかき消されてしまうそうな小さな声。わずかに震えている。私が生きていること、共にこの景色を見ていることへの喜びと……仄見える執着。けれど、不快感や恐怖は感じない。彼が私に世界を教えてくれるなら、私の居場所はここ。 返事をしたら、後戻りはできない。私は、自分の決断を信じて「はい」と答えた。 そうやって始まった、蜂蜜のように甘い生活。恋人のように愛されているわけではないけど、ほかに表現のしようがない。何か記憶の手掛かりがないかと、三か月半の出来事を振り返るたび、私はおとぎ話に迷い込んでいるんじゃないかと疑いたくなる。 入院中、映画の配信サービスを観るためだけに与えられた端末で、いろいろな映画を観た。それぞれを初めて観るものとして認識したけれど、以前の私が観たものもあったのかもしれない。昔ながらの童話を下敷きにした作品は、もとになった話の筋を覚えていた。その点につ
夢を見た。 暗くて寒い。誰かが私の肩を強くつかんだ。恐怖が背筋を駆け抜ける。駄目。叫んではいけない。嫌悪と絶望と、覚悟。唇を強く噛んだ時、大きな音と怒号が響いて――凄まじい咆哮。意識が白く染まっていく……。「リン」 「……あ」 温かい声が私をくるむ。夏の布団の上に突っ伏して、その一部をぎゅっと握り締めて眠っていた。肩にふわりと掛けられたのは、紫色のブランケット。 「晧司さん……」 「指を噛んではいけないな。傷になる」 言われて気付いた。私は、おそらくは夢の中の恐怖に堪えるため、自分の人差し指を強く噛んでいた。歯型が付くほどに。 「怖い夢を見たのかな」 私の手を大きな手で包み、ブランケットごと抱き起こすと、彼は目尻の涙を拭ってくれた。 「はい……怖かったっ……」 誰がいたのか、どこにいたのかはわからない。ただ、恐ろしかった。晧司さんに抱き寄せられ、胸に縋って泣き、ようやく安全な現実を認識した。 「勝手に入ってきてすまなかった。様子を見にきたんだが、気配が気になってね」 「いいんです……」 しっかりとつかまえていてくれる手。髪を撫でて、何度も「大丈夫だ」と言ってくれる。 「晧司さんっ……」 あれが記憶の一部なのだとしたら、思い出したくない。ただの夢であってほしい。 「大丈夫だ。君は勇敢でまっすぐで、美しい。何者も、君が君らしく生きるのを止めることはできない……」 「私、らしく……」 「ああ、そうだ」 涙が引いていく。鼓動が、通常の速さに戻ってきた。 「晧司さんは……私らしい私を知っているの?」 「そのつもりだ。尤も、よく驚かされたものだが……それも含めて、君らしいと思っているよ」 私にとって、記憶の手掛かりとなる言葉だ。入院のきっかけは、事故だと聞いている。外傷はほとんどなかったから、深い眠りは、ショックを受けた心身を回復させるためのものだったというのが、お医者様の結論。事故の内容は伏せられている。 夢で私は、怖くてたまらないのに助けを求めなかった。何か、やらなくてはならないことがあった……? そ
晧司さんに髪をとかしてもらい、念のためと抱きかかえられて、二人を迎えるため自室を出た。彼は私の髪に触れるのが好きで、ブラッシングが自分の仕事であるかのように熱心。それは何かの行為の代わりに感じられて、すぐに人と会うのは恥ずかしい……。 「私以外の者に、そんな顔を見せてはいけないよ」 リビングへと歩きながら、腕の中の私をたしなめる晧司さん。 「そう言われても……」 ソファーに下ろされ、スカートを直す。彼は床に片膝をついて、私の左手を握った。薬指の付け根を、何度もなぞる。 「ほら、その目だ。つかまったら、抜け出せない……」 晧司さんの眼差しこそ、吸い込まれて閉じ込められてしまいそう。彼の真意がわからない。日本はいとこ同士でも結婚できるけど……。 その時、インターフォンが鳴り響いた。一回、二回鳴ったあと、五秒後にもう一回。春日さんと七華さんの合図だ。彼らは合鍵を持っているけれど、「来ましたよ」と知らせるために合図を決めている。張り詰めた空気が溶けていく。立ち上がった晧司さんの手をつかみたい衝動に駆られた。 「リン?」 「あ……」 見下ろす瞳は曇りなく澄んでいて、私に危害を加える人物とは思えない。夢の中の恐怖が、無意識へと押し込められた記憶の一端だとしても、私に乱暴を働いたのは別の人物。そう思いたい。信じたい。あなたは私を、無理やり自分のものにしようとする人じゃない、って。 そうよ、あれはただの夢――。「おはようございます。……リン様?」 入ってきた七華さんが、心配そうに私を呼んだ。 「おはようございます、七華さん、春日さん」 「ご気分が悪いのでは? 奥でおやすみになりますか?」 「ううん、おしゃべりがしたくて待ってたの。今日は少しお手伝いもしたくて」 七華さんは私を注意深く観察し、晧司さんをちらりと見た。彼は小さく頷いている。寡黙な春日さんも、口には出さないけれど心配してくれているのがわかる。 「うたた寝して、怖い夢を見ただけ。動けば忘れます」 「では……そうですね、持ってきた食材を下ごしらえするのを、ご一緒によろしいですか?」 「ええ」 新鮮なお肉やお魚を手順通り調理していくのは楽しい。 「記憶を失っているのに、こういうことは体が覚えているみたい」 「記憶喪失にも、いくつか種類がありますから」 男性陣
春日さんと七華さんは、週に数回やってくる。私に付きっきりの晧司さんに代わって買い物をしたり、家中のお掃除をしてくれたり。外界と隔絶された生活は、二人のおかげで成り立っている。お昼前に来て、昼食を共にする。夕方からは、また晧司さんと二人きり。 私は病院でのリハビリに代わるものとして、別荘の周りを無理のないペースで散策している。七華さんがついてきてくれる時は、女同士の内緒話ができて楽しい。この日も、口には出さないけれど心配そうな晧司さんを残して、二人で散歩に出た。「お顔の色がよくなって安心しました。今日はたくさんお手伝いいただいて、ありがとうございました」 「あまり邪魔にならなかったのなら、いいんだけど」 「大助かりでしたよ。社長も嬉しそうに見守っておられましたね」 彼女と春日さんは、晧司さんの会社の社員という形で働いている。だからあの人を「社長」と呼ぶ。もっとも、二人は特殊な位置付けで、必要に応じて縦横無尽に動ける立場であるらしい。 「嬉しそうというか……目を離してくれない」 私を瞳にとらえると、ずーっと追ってくる。 「そうですね」 彼女は、クスクス笑ってる。 「私、そんなに頼りなくて危なっかしいのかな」 「その反対です。正反対です」 美しく整い、いつでもきりっと気持ちのよい緊張感を放つ七華さんの顔が、くしゃっと崩れた。木の枝を弦に音楽を奏でる、柔らかな風のような笑い声。 「……以前の私の性格を、大体察しました」 頼りないわけでも、危なっかしいわけでもない。おとなしいわけでもなかったのだと思う。今は不安もあって、慎重に日々を過ごしているけれど。 「すると晧司さんが心配しているのは、私が元気になるにつれて何かやらかすのではという……」 そっちの方だったの? 七華さんは、否定してくれない。にこにこ頷くだけ。 「あー、何したんだろう私……」 反省しようにも、材料となる記憶がない。謝ろうにも、何について謝ったらいいのかわからない。でも、これだけは言える。 「これからはあまりご心配をかけないようにします……努力します」 「はい。努力は大事です。心がけがあるとないとでは、だいぶ違ってきますからね」 姉のようにたしなめる口調は、容赦がなくて温かい。それでまた察した。 「もしかして今の言葉、すでに言ってました?」
年の離れた従兄の部下である人。彼女と私は、ある程度親しかったことになる。この距離感からして、それこそ姉妹のように。 七華さんがさり気なくちりばめてくれる、記憶のかけら。まだ、つなぎ合わせるほどの数は集まっていない。 「晧司さんが私を山奥に閉じ込めているのは、それが理由なんでしょうか」 私の行動を恐れてのことだとしたら、辻褄は合う。だけど、従兄に過ぎない彼がなぜそこまで。私はこの世に晧司さんしか、血のつながった人間がいないのだろうか。 「『閉じ込めて』ですか……軟禁状態であることは確かですものね」 そう、軟禁状態。木々の緑も夏の花も、鏡のような湖も気持ちがよくて、大自然に囲まれて健やかな気分になる一方で、自分の正体は霧に包まれて見えない。 ひょっとしたら、私は七華さんの同僚? くノ一的な。だとすれば、かくまわれているのも、彼女と親しいことにも納得がいく。記憶さえ戻れば、また晧司さんのために働ける――みんなでそれを待っている、とか? または……怖い夢が現実だった場合。晧司さんの会社の関係で、何らかの事情があって私が襲われて、罪滅ぼしに大事にされている。この方向は、あまり考えたくはない。ただ、晧司さんの過保護ぶりからいって、相当な目に遭ったのではないかと勘繰ってしまう。「勇敢でまっすぐ」な私が、今はまるで翼を畳んだ鳥のように、彼の腕の中でおとなしく休んでいるんだもの。 「リン様」 七華さんの手が、温かく私の両手を包んだ。つやのある、綺麗な爪。声も微笑みも、思いやりに溢れている。 「大丈夫ですよ。記憶があってもなくても、私たちは絶対にあなたの味方です。ことに社長は……リン様のこととなると極端に走る傾向がありますけど、大切なんです。リン様のことが、何よりも」 「七華さん……」 彼女の、心の奥底まで見通す、それでいて不快ではなく安心できる瞳を、私は確かに知っている。強く励ましてくれた、あれはいつのことだったか――。 ――社長を信じてあげてください。 ああ、またひとつ、記憶のかけら。
もどかしい。七華さんに、知っていることを全部話してほしいと迫りたくなる。彼女は、話したい気持ちにブレーキをかけてる。私と共有した過去を、声を合わせて笑った時間を、取り戻したいと願っている。 自分の性質が朧気ながら見えてくると、人の性格や心情にも意識が向く。七華さんが詳細を話さないのは、私をがっかりさせないためだろう。過去を情報として提示しても、切れた記憶の糸を本当の意味で修復することにはならない。 「ありがとう、七華さん」 私も、彼女の手をそっと握った。記憶があってもなくても、素敵なお友達。あなたは晧司さんと私の関係を、続くべき、よいものだと思ってくれているのでしょう。例えば一人っ子の晧司さんが、同じく一人っ子の私を妹のようにかわいがってくれて今日まで来た、それでもいい。切れることのない絆が、あの人との間にあるのなら。 晧司さんの指輪の跡が誰との縁なのか、悩むのはやめよう。記憶が戻ればわかることだ。 私は今、大好きな従兄と暮らしている。うん、大好きで、たっぷりと甘えてきたに違いない。甘やかされて、時々叱られて。目を離すと飛んでいってしまう私を、仕方がないなと困り顔で見守る姿が想像できる。 そんな二人だから、彼の恋も私は応援していたはず。その恋が破れた時、私は彼のために泣いたんだろうか。 過去は見えないけど、ここには今と未来がある。 「ねえ、私……もしも一生記憶が戻らないとしても、晧司さんのそばにいたいな」 「リン、様……」 「泣かないで……。ね、私、いていいんですよね。ずっとこのままでも、あの人のそばに。何でもいい、私にできることをしてあげたいの」 「もちろんです、もちろんですとも」 もらい泣きして、涙を拭き合った。 そこへ、晧司さんのものでも、春日さんのものでもない足音がした。神経が鋭敏になっているせいか、もともとそうだったのか、私は足音を聞き分けることができる。七華さんもハッとして、振り向きながら私を後ろへ隠した。 「山奥に、くノ一が二人。時代劇の撮影現場にでも迷い込んでしまったのかな」 現れたのは若い男性。夏の光を自分の身に吸い寄せるかのように堂々とした立ち姿。快活な声は、どこかミステリ
「先ほど下の方でお見かけしましたが、わざわざこんな上まで何かご用が?」 七華さんに問われ、男性は穏やかに答えた。 「近くに住んでいましてね。湖まではちょうどいい距離なので、時々足を伸ばすんです」 嘘は言っていないように思う。私は、無意識のうちにそう判断した。 「私たちをご存じなんでしょうか。だって、くノ一って」 私の問いに、七華さんがクスッと笑った。男性は、心なしか目が優しくなったような。 「舞台装置に敬意を表したまでですよ。聞き流してください」 笑いを含む落ち着いた声に、気持ちが和む。彼は歩み寄り、私たちに近付いてきたかと思うと、すっと通り越した。靴を履いていることを計算に入れても、やはり晧司さんより背が高い。彼はそれから数メートル進んで立ち止まり、振り返った。 「いつもは湖の反対側を歩いています。今日は新たなルートを開拓しようとこちらへ来てみたんですが、幸運でした」 「どういう意味でしょう」 七華さんの声には、いまだ警戒心がこもっている。春日さんが話していた「若い男」が彼なら、不審者ではないと一度は判断したはずなのに。 七華さん、何を心配しているの? 「美しい女性に山の中で巡り会う。最高の幸運でしょう。あなたがたは、狸にもあやかしにも見えませんしね」 「泥のごちそうを食べさせられることも、生き肝をとられることもなさそうだと?」 昔話の例を出してみると、彼は眩しそうに目を細めた。 「そういうことです。では、いずれまた」 草を踏むかすかな音。背筋をまっすぐに伸ばし、休日を楽しむ青年にしてはややまじめすぎる印象を与えて、曲り道の向こうへと消えていった。 その日、私の心の底に、言葉にならない温かいものが生まれた。
「お帰り、リン。おや、何かいいことがあったようだね」 玄関に出迎えてくれた晧司さんは、私に手を差し伸べながらそんなことを言った。 「ただいま、晧司さん。特別に何かあったわけじゃないけど……ふふ」 言われてみれば、いいことかな? アポロンでディオニュソスな彼との出会い。風貌からは、絵画などで見る太陽神を連想した。理知的な雰囲気や、ロマンの香りも漂わせている。けれど彼の内面は激情でいっぱい。現実的なあらゆる衝動を、容貌で上手に隠している人。私に、湖の底から水面の光を覗かせてくれた気がする。 「私には内緒か? 寂しいな」 「あとで話しまーす。手を洗ってきますね」 洗面所に向かう私の後ろで、晧司さんと七華さんが話していた。 「誰に会った? 春日が言っていた男か」 「はい、間違いございません。地元の青年で、この辺りを散歩で訪れることがあるとか」 「……ではないのだな?」 「見た限りでは……」 あとの方は、よく聞こえなかった。 二人だけの時間が戻ってきて、私は無性に本を読みたくなった。 「晧司さん、お部屋から本を借りてもいい?」 「ああ、もちろん。取れないのがあれば言いなさい」 「はい」 彼はリビングでお仕事。散歩での出会いのことは、まだ話していない。何となく、もうちょっと、心にしまっておきたい気がして。 彼の寝室は、私の居室の隣。大きな本棚から、好みの本を選んで手に取った。何冊か机に置き、また次のを選ぶ。机も本棚も大きくて、寝室というよりは書斎のよう。けれど書斎は別にある。もとは書斎だったところに、ベッドを入れたかのような違和感。机も、晧司さんには低いんじゃないかな……。椅子で調整しているようだけど。 「これも、そのうちわかるのかな」 違和感を覚えるところには、私の記憶が眠っている。無理に起こすことはせず、自室へ戻った。 運んできたのは、神話を含む、様々な昔話の本。謎の青年がもたらしたのは、説明のつかない温かさだけではなかった。本を読みたい。物凄く読みたい。そこから、私の活動範囲が一気に広がっていく予感がある。今日は朝から調子がよかったからそういう時期にきていたのだろうけど、彼を見て、彼と話して脳が刺激されたことは明らか。 またすぐに会えたらいいなと願う、この気持ちは……恋?
心臓が飛び出しそうになった。いけないと思いながらも奥を覗くと、もうひとつ。やや大きめの、同じデザインの指輪があった。 「晧司さんの……」 指輪の跡は、これだったんだ。手前に転がってきたのは、彼が誰かに贈ったもの。私の指にも、合いそうだけど……。 自分の左手薬指に通そうとして、我に返って思いとどまった。指輪のサイズが合うからって、何なの。これが私のものなら、彼は私をそれにふさわしい間柄だと明かせばいい。日本は従兄妹同士だって結婚できる。 私が彼と深い関係にあったのなら……離れないと誓った仲なら、「関わってはいけない」という言葉はおかしい。夕李とのデートを黙認するはずもない。晧司さんは私に対する執着を隠さないのに、一方で突き放そうとしてくる。 ゴホッ 壁を通して、咳き込んでいるのが聞こえた。指輪を奥へ戻し、ノートだけを持って書斎を出た。今は、自分にわかることをしよう。「思うままに進んでください」と言ってくれたのは、春日さん。七華さんも、記憶を失う前の私に「社長を信じてあげてください」と。何よりも、私の心と体があの人を受け入れた。そばにいたい。連れてこられたからではなく、自分の意志で。 「……ふぅ」 キッチンのカウンターにノートを置き、ドリンクの材料を用意しながら頭を整理した。彼は、わざとあの引出しを私に見せたのだろうか。決断させるために。それとも、意識が朦朧としていて、うっかりした? 今頃、頭を抱えていたりして。指輪のことは、見なかった振りをした方がいいのかもしれない……。 お盆に乗せたスープの横に、並々とドリンクを注いだグラスを乗せたところで、気が付いた。ノートの存在を忘れていたことに。 「私……」 キッチンに入ってから、レシピを一度も確認せずにドリンクを作っていた。書斎でちらっとそのページを見たとはいえ、今は閉じている。材料も器具も、無意識に整えていた。 「体で覚えてた……?」 それなら、さっき浮かんだ会話も記憶のかけらということになる。私は、晧司さんが二日酔いに悩まされた時に、効果覿面のドリンクを作ってあげる立場にあった……あの会話には、お互いを甘やかすような親密な雰囲気が漂っていた。親しい従兄妹なら……まして昨夜のようなことをする仲だったのなら、何の不思議もない。 重いお盆を持って、寝室へと戻る。五か月前、病院
ふぅ、と息を吐いた彼は、また体の向きを変えて天井を仰いだ。まだ私の顔を見るのが辛いのか、腕で半分顔を隠している。 「わかった……」 ガラガラの声は、しゃべらせるのがかわいそうになってくる。風邪かもしれない。薬を探して、見つからなかったら春日さんに聞いてみよう。 「すぐ戻りますね」 まずはスープと温かいお茶を持ってこようと、ベッドを離れる私を、「待ってくれ」と引き止めた。 「では……別の頼みだ。こういう時に効くドリンクがあるから、作ってくれないか。レシピは私の書斎の引出しに入っている。上から三番目だ。……これで、鍵が開くから」 貴重品入れから取り出したキーホルダーの中から、一番小さな鍵を示す。 「わかりました」 頼ってくれたのが嬉しくて、廊下を隔てて隣り合っている書斎へと急いだ。 上から三番目の引出しを開けると、ノートが入っていた。ほかにレシピらしきものはないから、これに違いない。開くと、ほとんどのページに新聞の切抜きが貼ってあった。内容は、様々なお料理の作り方。 大きなショッキングピンクの付箋を立てたページがあり、開いてみると、二日酔いに効くドリンクの作り方が書かれていた。何かの物語に出てきたレシピを書き抜いたものらしい。ワープロ打ちをしたものを、プリントアウトして貼ってある。白い紙の余白からノートの罫線まではみ出して書かれているのは、晧司さんの字だった。 『……を足すのはどうだろう?』 何を足すのかは、字がほとんど消えていて読めない。字の横に書かれた三角は、却下ではないけど即採用でもない、という意味に見える。 ――いいんだけどね。もう少し、こう、味がまろやかにならないものかな。 ――良薬口に苦し、ですよ。 「あれ……?」 ふっと浮かんだ会話。晧司さんと……私? 「想像しただけ……だよね」 ショッキングピンクの付箋は、晧司さんの寝室の、机の上にあったのと同じ種類だろう。とすると……。 思案しながら引出しに手をかけると、手前に傾き、奥からコロンと転がってくるものがあった。金の指輪――。
目が覚めたのはお昼過ぎ。体もベッドも綺麗になっていた。光が眩しい。カーテンを開けると、台風は通り過ぎていた。乱暴な洗濯機の中に放り込まれていたような世界は、すっかり洗われて輝いている。 何も着ないでベッドから出た私の体には、晧司さんに愛された赤い痕。そこに触れただけで、熱い瞬間がよみがえる。お腹の奥に残る充実感。 「なぜ……」 疼く胸は、私が忘れた答えを知っている。昨夜、私は晧司さんのもので、晧司さんも……私のものだった。決定的な言葉はなかったけど……。 カーテンを握りしめて嵐の夜を反芻していると、どんどんいけない気持ちになっていく。振り切るように、シャワーを浴びにいった。 怠い体を励ましてリビングへ行くと、晧司さんの姿はなかった。情事の名残は拭い去られている。部屋の様子は、昨夜私が帰ってきた時とあまり変わらない。 「まだ起きてない……?」 彼の寝室は、私の部屋の隣。静まり返っていたから、もう起きているものだと思っていた。引き返して寝室の前まで行くと、中から扉が開いた。重い足取り。前髪が乱れ、顔色の悪い晧司さんが、私を見て瞳を揺らした。素肌に夏のガウンを纏っている。 「リン、昨夜は……」 声もひどい。体がふらついて、私の方へぐらりと倒れそうになったのを、壁に寄りかかってかろうじて支えている始末。 「二日酔いですね……」 「そんなことはいい。昨夜はすまなかった。私は君に……ゴホッ」 「『そんなこと』じゃありません。ベッドに戻ってください。私につかまって」 頭痛に障らないように声を落とし、彼を寝かせて窓を開けた。 「少し、空気を入れ替えますね。冷製のスープがあるから、持ってきましょうか?」 「うん……それもいいが、頼みがある」 「何でも言ってください」 「春日を呼んで、君はこの部屋には近付かないことだ。無理に私の世話を焼く必要はないんだよ」 「春日さんですか? 明日みえますけど、その前にお仕事のお話があるなら……」 「そうじゃない。こんな男に関わってはいけないと言っているんだ」 私に向けた背中は、反対のことを訴えている。リン、行かないでくれ――っ
頭も心も、とろかされていく。晧司さんの冷たい炎は、私に火をつけ、彼自身をも高めていく。「んっ……あ、あ……そこっ……」「リン、いい子だ……何度でも、ほら……」 いつ終わるとも知れない、途切れることのない執拗な行為。服を着たままの彼に後ろから抱きかかえられ、ソファーが時々きしむ音と、絶え間ない水音が羞恥を煽る。もう何度達したかわからない。煌々と明かりの灯るリビングで、私だけが生まれたままの姿で……。外は雷雨。行為が始まった時から遠くで轟いていた雷鳴。今は、私のあられもない姿を知らしめるかのように、連続して稲妻が閃いている。「晧司さん……晧司さん……」 気持ちがよすぎて、けれど状況に混乱して、掠れた声で名前を呼ぶことしかできない。彼はとろとろになった私を食べてしまいそうなくらい、頬に、耳に、肩に、熱い唇を押し付けてくる。汗といろいろなものが彼の服を濡らしていく。顔が見たくて後ろを向いた時、目が合って胸を衝かれた。何て切ない瞳――。「その目はいけないな。まったく君は……」「あっ……待って、晧司さんっ」 抵抗する間もなく、ソファーに仰向けに寝かされた。繰り返されたオーガズムで力が抜けていたせいもある。それまで頑なに服を脱がなかったのが嘘のように、下半身を露わにした彼は、いつも「おはよう」と言う時の顔で優しく笑った。反射的に気が緩み、次の瞬間にはもう、圧倒的な質量の侵入を許してしまっていた。 痛くはない。不快でもない。でも、心が追いつかない。体は悦んでいる。これを待っていたのだと……これが欲しかったのだと、奥へ奥へと彼を受け入れる。呼吸を乱して一糸纏わぬ姿となった彼は、私を宥めながら突き、擦り、揺さぶった。叩きつける雨の音を聞きながら、激情の波に攫われていく。 動きが制約されることに焦れてくると、晧司さんはつながったまま私を抱え上げ、私のベッド
「晧司さん……?」 「お帰り、リン」 「起きてた……?」 「かわいい気配と、石鹸の香りでね」 髪を弄ぶ指にドキッとした。腰を抱く大きな手も、夕李との行為を連想させる。 「ん? 今日はどんな悪いことをしたんだ? 言ってごらん」 耳を食べられてしまいそうな囁き方……背骨をすーっと撫で上げる触れ方……頭のてっぺんから足の爪先まで、ゾクゾクと電流が走る。 ――この感じ、知ってる! 「リン、答えるんだ」 髪をよける手つきも、私を射竦める目も、優しい従兄のものではない。男の人のもの。酔っているから? 寝ぼけて、昔の私と話しているつもりかもしれないし……何だか、怖い……。 「ンッ……」 腰から下の形を確かめるように丸く撫でられて、甘い声が漏れた。 「ほぅ……情熱的だ。さすが、若いな」 「え? ……あっ」 髪で隠していたキスマーク。晧司さんは、寝間着の襟から覗くそれに爪を立てた。 「ん、んっ」 局所的な鋭い痛みが、体の奥まで浸透する。いやがっていないどころか悦びさえも感じる自分に、戦慄を覚えた。体を反転させられ、彼がのしかかってきた。「よく見せなさい」とほかのキスマークに噛みつかれ、体中を点検するように脱がされていく。彼の肌の温もりに、泣きたくなった。 「はぁ、あ、ん……」 「もっと声を出して……素直になりなさい」 素直に、って……。夕李が付けた痕を上書きされ、背中も太腿も点検されて……足の指の一本一本まで、「私のものだ」と教え込むかのような念入りな愛撫。どっと溢れる愛液。濡れそぼった秘所を、晧司さんは異様な目で見つめた。 「や……恥ずかしい」 「許したのか? ここを」 氷のように冷たい声。思い切り首を横に振った。 「確かめなくてはな……」 侵入してきた指を、私の体は拒まなかった。
ラグにぺたんと座り、ソファーの縁に手をかけて呟いた。あなたはこの世の何より私を大事にしてくれるけど、私たちはただの従兄妹同士。夕李は私を愛してくれていて、私も心が動いたはずなのに、受け入れることができなかった。二人とも悲しそうで、それは確かに私のせいなんだ。「どうすればいいっていうの……」 起きてよ。教えてよ、晧司さん。あなたは全部知っているんでしょう。知識だけで構わない。経験として思い出せなくてもいい。今すぐ、知りたい。「り、ん……」 ハッと顔を上げると、彼は安心しきった笑みを浮かべていた。夢を見てる。今ではない、以前の私の夢だ。晧司さんのことを、たくさん知っていた頃の私――。 たまらなくなって立ち上がり、自分の部屋へと逃げ込んだ。 私の部屋は、奥のドアから専用のお風呂場へ行ける。すっきりしない気持ちを洗い流したくて、シャワーを浴びた。洗面所にもなっている脱衣所の鏡を覗くと、何をしてきたのか一目でわかる痕がいくつも付いていた。夏のワンピースタイプの寝間着では隠し切れない。髪を垂らしてごまかした。「晧司さん、大丈夫かな……」 さっぱりとした体で考えれば、自分の子供じみた振る舞いが恥ずかしくなる。悲しんでみても始まらない。デートが失敗したのは、私の心の準備が足りなかったせい。夕李は、待つと言ってくれた。今夜のことで、お互いに悪感情を抱いたわけでもない。 晧司さんの方は、妹の初デートで気を揉む兄のような気持ちだったのかもしれない。あれだけ過保護なんだもの、考えすぎてしまう前にお酒に逃げることは十分に考えられる。説明のつかないことが多いにしても、目の前の情報を的確に読み取る努力はできる。私が彼の立場でも、居ても立っても居られないだろう。 八月といっても、この辺りは朝晩の気温が低い。あのままでは風邪を引いてしまう。気になって見に行くと、体勢を変えることなく眠っていた。引き続きいい夢を見ているのか、表情は穏やか。ぐちゃぐちゃだった私の心も静まっていく。「リン……そっちへ行ってはいけないよ……リン&
夕李は、ひと言も私を責めることなく、別荘まで送ってくれた。普段は使わないカーステレオから、今日観た映画の主題歌が流れてきた。……ほんの少しの勇気があれば……私が立ち止まっているのは過去? 未来? 現在はどこにあるの……――そんな曲だった。 今夜は帰らないと思っていた場所へ、帰ってきた。シートベルトを外すのが怖かった。夕李との日々が、終わってしまうようで。「体を冷やさないようにね」「ええ。あなたも」「今日のことは気にしないで……うまく言えないけど、僕がすずを好きなことに変わりはないから」「夕李……」「次は笑える映画を観にいこう。いいだろ?」 ズキンと胸が痛んだ。彼は苦しんでる。私の気持ちを軽くしようと、無理に明るく振る舞おうとしている。「ええ。……おやすみなさい」 車内に長居すれば、彼の傷を深くする。シートベルトを外して、ドアを開けた。「すず」 腕を掴まれ、振り返った。「待ってる。……おやすみ」 言うべきじゃないのに言ってしまった、でも口から出たことは戻らないよな、と……寂しそうな瞳が語っていた。私も無理に笑みを作って、車を降り、ドアを閉めた。走り去る車。点滅するテールランプは、映画で使われていた暗号。 ――愛してる。 涙が出そうになったけれど、今の私に泣く資格はない。夕李の想いを、胸に刻み込むだけ。空には暗雲が広がってきている。「台風が近付いてるんだっけ……」 ざわっと揺れる木の枝が私を責めているようで、ゾクッとして玄関に駆け込んだ。「ただいま……」 家の中は、奇妙なほど静まり返っている。晧司さんの寝室にも書斎にも、気配は感じられない。リビングまで行ってみると、意外な光景が私を迎えた。 晧司さんが、ソファーで眠っている。それ自体は珍しくない
ホテルの部屋が何号室なのかも、部屋の装飾さえも、情報がうまく頭に入ってこない。これから始まることと、彼の存在感に圧倒されて、息をするのが精一杯。 「すず……」 「影野さん……」 瞳の奥に炎が揺らめいている。肩を抱く腕に力がこもる。触れ合った唇は震え、いったん驚いたように離れた。それから、心を決めたようにしっかりと重ねられ、吐息が絡まり……性急な唇が、私の首筋、鎖骨と下りてきた。 「あっ……」 漏れた声は、熱を持って男性を求める時のもの。この体は、抱かれることを知っている。彼の指がスカートをたくし上げ、そのまま腰を抱かれてベッドに横たえられた。 「好きだ」 「影野さん……」 徐々にはだけていく胸元をなぞる唇に、太腿の内側を悩ましくたどる指に、返事をしたい……しないといけない……。 「考えなくていいから……今は、僕を受け入れてほしい……」 ムードを出すために抑えられた照明の中、直接彼が触れる部分が増えていく。ここのところ胸が疼いていたのはこの人のためだったのだと……甘噛みされて高まっていく中、体を明け渡す言い訳をしていた。大丈夫、彼は悪い人じゃない、私も彼が好き……。 「ゆう、り……」 「やっと名前呼んでくれた……」 胸のふくらみを強く吸われ、ピリッと痛みが走った。 「ンッ……」 所有印を付けながら、下半身への愛撫も強めていく。下着の中に手が入ってきて、腰が跳ねた。頭の隅を掠めた違和感。 「だ、め……」 はっきりしない制止。自分の反応に戸惑い、親指を噛んだ。そうするうちにも、人肌の温もりに誘われ、体の奥から溢れてくるものがある。 「だめ……? ほんとに……?」 「あ、んっ」 敏感なところを攻められれば、体は応えてしまう。私はこの行為が嫌いではない……おそらく慣れている……その相手は彼だったの……? 水音と、夕李の熱い息に、思考力が低下していく。とても大切に触れてくれているのがわかる。でも……。 違和感は、秘所に侵入してきた指先で、決定的なものとなった。開かれるはずのそこが、縮こまっていく。 ――違う!
七月が終わる頃には、影野さんと過ごす時間は私の当然の日課となっていた。七華さんは現れない。忙しい春日さんをわずらわせるのもと、私と影野さんが買い出しに行くようになった。彼は車で別荘の前まで来て、晧司さんに丁寧に挨拶をする。晧司さんは「リンを頼むよ。リン、ゆっくり楽しんでおいで。買い物は最後でいいんだよ」と私たちを送り出す。『買い出しの日』が『デートの日』に変わるまでに、時間はかからなかった。 影野さんが勤める美術館に行ったのは、八月の終わり。現在の特別展示がもうじき終わるため、彼は次の企画のことで忙しく、顔を見たのは一週間ぶりだった。 会えない間もメールはくれて、一通の返事を書くのに三十分も悩んだこともあった。あれもこれも話したい……と迷った結果、「お仕事頑張ってください。次に会えるのを楽しみにしています」と、当たり障りのない文面になってしまった。けれど彼は、それが嬉しかったと言ってくれた。「一生懸命考えたんだなって……『会いたい』って書いては消し、書いては消して、あの文面になったのかな、とね。僕の自惚れでなければ」 美術館に着く前、彼は見晴らしのいい場所で車を停めた。雄大な景色の中、風になびく私の髪をそっと押さえ、熱を帯びた瞳でそんなことを言われたら、もう我慢などできなかった。私の両肩に手を置いて言葉を待つ彼に、正直に伝えた。「会いたかった……影野さん。私のアポロン」「すず……」 初めての抱擁。彼の体躯は、細いのにしっかりと筋肉がついている。シャツの下の鼓動を聞きながら、私は今日帰らないのかもしれないと思った。 予感は当たった。 この日、私を案内するためだけに美術館を訪れた影野さんは、特別展示と常設展示をまわったあと、山を下りた。車内では展示のことで話が弾みながらも、時々挟まる沈黙にドキドキした。食事とお茶、それに映画。どれも楽しかったけれど、夜を待っていることは明らかだった。 暗くなってきた頃、再び山へ入った。行く手には、幻想的な雰囲気のホテル。彼は駐車場の手前で一時停止して、私をちらりと見た。私は、彼のシャツを摘まん