退院するまで、ついにほかの親族と会うことはなかった。
別荘へ移ったのは、六月中旬のよく晴れた日。それまでは梅雨らしく、雨が降り続いていた。
時間がかかるからと、私が横になれる車が用意され、運転手は晧司さんの古い知り合いだという男性が務めた。春日雷斗と名乗った四十歳くらいの彼は、どこか、時代劇で殿様にお仕えする忍びのように思えた。晧司さんは、「当たらずといえども遠からず、だな」と笑った。途中、何度か休憩を入れながらたどり着いた山中。開けた場所に広がる広大な湖。そのほとりに佇む瀟洒な建物は、初めて見るのにどこか懐かしく感じた。
出迎えてくれたのは、私と同じくらいの年頃の、きりっとした雰囲気の女性。名前は明吉七華さんで、第一印象はくノ一。近寄りがたい美貌の持ち主だけど、私には親しみ深く笑いかけ、自己紹介をしてくれた。彼女は春日さんとともに、晧司さんに深く一礼し、私たちと入れ替わりに車に乗り、去っていった。「さて」
晧司さんは、私をさっと抱き上げた。荷物はすでに、中へ運び込まれている。 「疲れただろう」 「少し……でも、大丈夫です」 完全に、周りに誰もいない状態で彼と二人きり。病院は病室の外へ出れば大勢の人が働いていたし、ほとんど会わなかったけれどほかの患者さんもいた。毎日優しく励ましてくれたお医者様も。 ――今、本当に晧司さんと私だけなんだ。 わかりきっていた事実。開放的な外の世界へと出てきたのに、私は新たに閉じ込められようとしている。そんな考えが頭をよぎったけれど、彼の深い笑みに狂気や暗さは全く混じっていない。この人を信じる。信じたい。祈るような気持ちで、彼の肩につかまった。舗装されていない道路から玄関までは、なだらかなスロープ。七華さんが半分開けておいてくれた扉の中へと足を踏み入れた彼は、甘い声で囁いた。
「ようこそ、お姫様」 お、お姫様って。 咄嗟に返す言葉が出てこなくて、訳もなく恥ずかしさが込み上げる。彼はクスッと笑って私を静かに下ろし、上がり框に腰掛けさせた。病室で履かせてくれた靴を、今度は脱がせていく。 「あの……自分で、脱げます」 「わかっているよ。だが君は、この城の女主人だからね。かしずく者には素直に甘えているといい」 お姫様ごっこを続けるつもりらしい。彼の仕草には、従兄としての優しさだけでなく、恭しさもこもっている。 「晧司さんて、前から私をこんなに甘やかしていたんですか」そう、彼は私を正しく導き、支えながらも、尋常ではないほど甘やかす。心配しすぎた反動だろうか。入院中、お医者様や看護師さんにこっそり漏らすと、「嬉しいんですよ」と温かく微笑まれた。
「自覚はないが……君がそう感じるなら、そうかもしれない」 自分の靴も脱ぎ、再び私を抱えると、彼はとろけるような笑顔を見せた。ちょっぴり照れているみたい。少し自覚した方がいいと思うけど……今言っても無駄かもしれない。仕方ないなあ、と言いたい気持ちは顔に出ていたらしく、彼はますます幸せそうに笑った。晧司さんは、間取りを説明しながら私を運んだ。建物は横に長くて、玄関から伸びる廊下の右側には寝室が二つ。晧司さんのものと、奥は私のために用意させたという。廊下の左側には、晧司さんの書斎と、ゲストルームとしても使える和室。これらの四つの部屋の入口は、途中で左右に分かれて伸びる廊下に面している。 左右のどちらにも折れずまっすぐに進むと、右手にお風呂やトイレ、左手にキッチンを見ながら、リビングに出る。キッチンの向こうには、和室と向かい合う位置に洋室のゲストルームがある。ダイニングとほぼつながった形のリビングからは、光り輝く湖を一望することができる。 「素敵……」 感嘆のため息を漏らす。ここで過ごしたら、本当に、もっともっと元気になれそう。 彼はリビングで足を止めることなく、前方の階段へと進んだ。 「この別荘から見える、一番いい景色を見せてあげよう」 その言葉は、誇張でも自慢でもなかった。もうひとつのリビングからテラスへと出て、手すりのところまで連れていってもらった。彼の腕の中から見る世界の美しさに、言葉を失った。果てがないかのように思える湖。緑豊かな山々。おいしい空気。時々、澄んだ鳥の歌声が天空へと昇っていく。 ずっと私を抱えている晧司さんは、重そうな素振りを見せることもなく、息を飲んで見とれる私に付き合ってくれた。 「君は、ここにいるんだ。私と一緒に。いいね?」 鳥の声にかき消されてしまうそうな小さな声。わずかに震えている。私が生きていること、共にこの景色を見ていることへの喜びと……仄見える執着。けれど、不快感や恐怖は感じない。彼が私に世界を教えてくれるなら、私の居場所はここ。 返事をしたら、後戻りはできない。私は、自分の決断を信じて「はい」と答えた。 そうやって始まった、蜂蜜のように甘い生活。恋人のように愛されているわけではないけど、ほかに表現のしようがない。何か記憶の手掛かりがないかと、三か月半の出来事を振り返るたび、私はおとぎ話に迷い込んでいるんじゃないかと疑いたくなる。 入院中、映画の配信サービスを観るためだけに与えられた端末で、いろいろな映画を観た。それぞれを初めて観るものとして認識したけれど、以前の私が観たものもあったのかもしれない。昔ながらの童話を下敷きにした作品は、もとになった話の筋を覚えていた。その点につ
「リン、食事の支度ができたよ」 低く、穏やかな声が私を呼ぶ。「はい、今行きます」「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あれから四か月にもなるんですよ」「まだ、四か月だね。正確には3か月半だ」 背を支えてくれる手。私がよろけたり、呼吸が苦しくなったりしないかと、注意深く見守る目。私より十五センチほど背が高くて、すらりとして逞しい。安心して寄りかかれる。長い足は、一人では速足なのに、私と歩く時は歩幅を合わせてくれる。顔を上げると必ず目が合うのは、いつも私を見ていてくれるから。 私の居室を出て、彼の寝室の前を通り、リビングへ。明るい朝日が差し込み、コーヒーのいい香りが漂っている。「今日もいいお天気」「梅雨明け宣言はないが、今年は早いのではと予想されているね。光で目が痛くはないかい?」「ええ。目は何ともないんですもの。……あ」「うん?」 晧司さんは私の視線を追った。リビングの階段を降りると、その先は『大きなリビング』。湖の上に張り出したテラスへと続く、この別荘の中でもとびきり素敵な場所。「テラスまで降りたい?」 遠慮がちに頷いた。駄目って言われるかな。でも、キラキラ光る水面を見ながら、晧司さんのおいしいお料理を食べたいな。 彼はちょっと思案してから、フッと笑った。わ、かっこいい。 見とれている間に、ふわっと抱き上げられた。お姫様抱っこ。緩くまとめたロングヘアが彼の腕にかかる。「晧司さん?」「では参りましょうか、姫」「え、あの……」「しっかりつかまって」「あ……はい」 おずおずと、肩に手をおいて首に手をまわす。病院からここへ移ってきた時も、ほかの時も、何度もこうして抱っこされた。そのたび、私でいいのかなっていう気持ちになる。十も年上の、よくは知らないけど大変な資産家だ
『大きなリビング』からテラスへと出られる窓は、開け放たれていた。半分だけ屋根がある広いテラスには、朝食の支度が整っている。晧司さんは、柔らかな椅子に私をそっと下ろした。彼は、向かい側ではなく私の右隣。 七月上旬の光は強いけれど、適度に日陰ができる造りなのであまり気にならない。水面を渡るそよ風は涼気を含んでいる。 「気持ちいい……」 ほぅ、と息をついて、コーヒーのポットに手を伸ばした。晧司さんのカップを引き寄せ、ゆっくり注ぐ。彼は何か言いかけたけれど、黙って待ってくれた。ん……重いけど、大丈夫。ポットを置くと「ありがとう」と温かな声。彼はお返しにと、私にカフェオレを作ってくれた。飲み物がそろったところで、食事が始まった。 「いただきます」 「いただきます。……どうかな?」 「おいしいです、とっても!」 フレッシュな野菜とハムのサンドイッチ。チキンサラダに、私が好きなゆで加減の卵に、コーンスープ。どれも素材の味が生きている。 「握力も食欲も、もうほとんど元通りだ。よく頑張ったね」 「晧司さんのおかげです。私が目を覚ましてから三か月、毎日リハビリに付き添ってくださって。その前も、退院してからも、こんなに……本当にありがとうございます」 「私は、自分がしたいからしているだけだよ」 彼は、私が眠り続けていた三か月の間も、親族としてめんどうを見てくれた。寝たきりで低下していた筋力が順調に回復してきたのも、彼が毎日、献身的に世話をしてくれたからだと、お医者様から聞いている。腕も足も、弱らないようにと少しずつ動かしてくれていた。毎日、毎日……。事故で意識を失い、一向に目を開けず、一生そのままかもしれないとさえ言われた私のために。 どこからともなく意識が浮上し、自分が何者なのかもわからず、混乱して縋るように目を開けた時、彼の手が私の指先を包んでいた。驚いて目を見開いた彼が「リン……? 私だ。わかるか? リン!」と呼んだ。それで、私は自分の名を知った。あの瞬間から始まった三か月と半月が、私の記憶のすべて。 意識を取り戻した私は、彼の瞳に浮かんだ光を打ち砕いてしまった。声は出なかったけれど、唇が「誰?」と動いた。「……自分の名は? 姓は」と震える声で聞かれ、答えられなかった。リンは鈴と書くことも、姓が天霧であることも、父方
天霧鈴、二十七歳。十二月二十一日で、二十八歳を迎える。 今、わかっていることはそれだけ。職業も、元の住まいも、晧司さん以外の身内の存在も、一切知らされていない。先入観なく自分で思い出せるのならその方がよいから、と言われている。 あの日、お医者様に呼ばれた晧司さんは、「すぐ戻るよ」と私の手を握った。彼の体温だけが、この世で唯一、確かなものに感じられた。ほかに私を知っているという人が現れる様子もなく、看護師さんが何度か出入りした。自分が点滴だけで生かされてきたこと。それは、かなり長い期間であること。少しずつ状況がわかってきた。 病室は特別室で、晧司さんは親族用に仕切られた小部屋で寝泊まりしていた。昼間は私のそばを離れなかった。ノートパソコンを操作したり、誰かと電話で話したりしている時も、私が起きると中断して世話を焼いてくれた。「大事なお仕事の最中なのに」と遠慮すれば、決まって「君の方が優先事項だ」と返ってきた。 最初は眠っている時間が多くて、疑問をぶつける余裕なんてなかった。その時期が過ぎると、だんだんと普通の食事をとれるようになり、リハビリも始まった。病室の外へ出るようになると、思考が働く時間も増えてきたけれど、自分の家族や境遇について、誰かに聞いてみることはしなかった。 リハビリも特別室専用ルームを使っていたから、私の疑問に答えてくれるような人と会うチャンスは少なかった。それに加えて、だんだんとわかってきた自分の性質。物事をじっと観察する癖があり、基本的に、人と話さず結論を出す。お医者様も、「それは病状ではなく、持って生まれた性格というものでしょうね」と請け合った。隣で聞いていた晧司さんの、私の肩に置かれた手が震えた。目に涙をためて、何度も頷いていた。 ――ああ、この人は私をとてもよく知っているんだわ。 そう直感した。 天霧晧司、三十八歳。手広く事業をやっている。穏やかな物腰の中に、私には見せない鋭いナイフを隠し持っている。それでなければ、漏れ聞こえてくる幅広い事業展開は不可能。詳細を調べようとは思わないけれど、彼の背景を想像するのは密かな楽しみ。左手の薬指に残る指輪の跡は、理由を考えようとすると脳が拒絶反応を起こすけれど……。 寝ても覚めても、彼が私の、一番の観察対象。だから、「病院を出て、空気のいいところでゆっくり暮らしてみない
晧司さんは、間取りを説明しながら私を運んだ。建物は横に長くて、玄関から伸びる廊下の右側には寝室が二つ。晧司さんのものと、奥は私のために用意させたという。廊下の左側には、晧司さんの書斎と、ゲストルームとしても使える和室。これらの四つの部屋の入口は、途中で左右に分かれて伸びる廊下に面している。 左右のどちらにも折れずまっすぐに進むと、右手にお風呂やトイレ、左手にキッチンを見ながら、リビングに出る。キッチンの向こうには、和室と向かい合う位置に洋室のゲストルームがある。ダイニングとほぼつながった形のリビングからは、光り輝く湖を一望することができる。 「素敵……」 感嘆のため息を漏らす。ここで過ごしたら、本当に、もっともっと元気になれそう。 彼はリビングで足を止めることなく、前方の階段へと進んだ。 「この別荘から見える、一番いい景色を見せてあげよう」 その言葉は、誇張でも自慢でもなかった。もうひとつのリビングからテラスへと出て、手すりのところまで連れていってもらった。彼の腕の中から見る世界の美しさに、言葉を失った。果てがないかのように思える湖。緑豊かな山々。おいしい空気。時々、澄んだ鳥の歌声が天空へと昇っていく。 ずっと私を抱えている晧司さんは、重そうな素振りを見せることもなく、息を飲んで見とれる私に付き合ってくれた。 「君は、ここにいるんだ。私と一緒に。いいね?」 鳥の声にかき消されてしまうそうな小さな声。わずかに震えている。私が生きていること、共にこの景色を見ていることへの喜びと……仄見える執着。けれど、不快感や恐怖は感じない。彼が私に世界を教えてくれるなら、私の居場所はここ。 返事をしたら、後戻りはできない。私は、自分の決断を信じて「はい」と答えた。 そうやって始まった、蜂蜜のように甘い生活。恋人のように愛されているわけではないけど、ほかに表現のしようがない。何か記憶の手掛かりがないかと、三か月半の出来事を振り返るたび、私はおとぎ話に迷い込んでいるんじゃないかと疑いたくなる。 入院中、映画の配信サービスを観るためだけに与えられた端末で、いろいろな映画を観た。それぞれを初めて観るものとして認識したけれど、以前の私が観たものもあったのかもしれない。昔ながらの童話を下敷きにした作品は、もとになった話の筋を覚えていた。その点につ
退院するまで、ついにほかの親族と会うことはなかった。 別荘へ移ったのは、六月中旬のよく晴れた日。それまでは梅雨らしく、雨が降り続いていた。 時間がかかるからと、私が横になれる車が用意され、運転手は晧司さんの古い知り合いだという男性が務めた。春日雷斗と名乗った四十歳くらいの彼は、どこか、時代劇で殿様にお仕えする忍びのように思えた。晧司さんは、「当たらずといえども遠からず、だな」と笑った。 途中、何度か休憩を入れながらたどり着いた山中。開けた場所に広がる広大な湖。そのほとりに佇む瀟洒な建物は、初めて見るのにどこか懐かしく感じた。 出迎えてくれたのは、私と同じくらいの年頃の、きりっとした雰囲気の女性。名前は明吉七華さんで、第一印象はくノ一。近寄りがたい美貌の持ち主だけど、私には親しみ深く笑いかけ、自己紹介をしてくれた。彼女は春日さんとともに、晧司さんに深く一礼し、私たちと入れ替わりに車に乗り、去っていった。「さて」 晧司さんは、私をさっと抱き上げた。荷物はすでに、中へ運び込まれている。「疲れただろう」「少し……でも、大丈夫です」 完全に、周りに誰もいない状態で彼と二人きり。病院は病室の外へ出れば大勢の人が働いていたし、ほとんど会わなかったけれどほかの患者さんもいた。毎日優しく励ましてくれたお医者様も。 ――今、本当に晧司さんと私だけなんだ。 わかりきっていた事実。開放的な外の世界へと出てきたのに、私は新たに閉じ込められようとしている。そんな考えが頭をよぎったけれど、彼の深い笑みに狂気や暗さは全く混じっていない。この人を信じる。信じたい。祈るような気持ちで、彼の肩につかまった。 舗装されていない道路から玄関までは、なだらかなスロープ。七華さんが半分開けておいてくれた扉の中へと足を踏み入れた彼は、甘い声で囁いた。「ようこそ、お姫様」 お、お姫様って。 咄嗟に返す言葉が出てこなくて、訳もなく恥ずかしさが込み上げる。彼はクスッと笑って私を静かに下ろし、上がり框に腰掛けさせた。病室で履かせてくれた靴を、今度は脱がせていく。「あの……自分で、脱げます」「わかっているよ。だが君は、この城の女主人だからね。かしずく者には素直に甘えているといい」 お姫様ごっこを続けるつもりらしい。彼の仕草には、従兄としての優しさだけでなく、恭しさもこもっている。「
天霧鈴、二十七歳。十二月二十一日で、二十八歳を迎える。 今、わかっていることはそれだけ。職業も、元の住まいも、晧司さん以外の身内の存在も、一切知らされていない。先入観なく自分で思い出せるのならその方がよいから、と言われている。 あの日、お医者様に呼ばれた晧司さんは、「すぐ戻るよ」と私の手を握った。彼の体温だけが、この世で唯一、確かなものに感じられた。ほかに私を知っているという人が現れる様子もなく、看護師さんが何度か出入りした。自分が点滴だけで生かされてきたこと。それは、かなり長い期間であること。少しずつ状況がわかってきた。 病室は特別室で、晧司さんは親族用に仕切られた小部屋で寝泊まりしていた。昼間は私のそばを離れなかった。ノートパソコンを操作したり、誰かと電話で話したりしている時も、私が起きると中断して世話を焼いてくれた。「大事なお仕事の最中なのに」と遠慮すれば、決まって「君の方が優先事項だ」と返ってきた。 最初は眠っている時間が多くて、疑問をぶつける余裕なんてなかった。その時期が過ぎると、だんだんと普通の食事をとれるようになり、リハビリも始まった。病室の外へ出るようになると、思考が働く時間も増えてきたけれど、自分の家族や境遇について、誰かに聞いてみることはしなかった。 リハビリも特別室専用ルームを使っていたから、私の疑問に答えてくれるような人と会うチャンスは少なかった。それに加えて、だんだんとわかってきた自分の性質。物事をじっと観察する癖があり、基本的に、人と話さず結論を出す。お医者様も、「それは病状ではなく、持って生まれた性格というものでしょうね」と請け合った。隣で聞いていた晧司さんの、私の肩に置かれた手が震えた。目に涙をためて、何度も頷いていた。 ――ああ、この人は私をとてもよく知っているんだわ。 そう直感した。 天霧晧司、三十八歳。手広く事業をやっている。穏やかな物腰の中に、私には見せない鋭いナイフを隠し持っている。それでなければ、漏れ聞こえてくる幅広い事業展開は不可能。詳細を調べようとは思わないけれど、彼の背景を想像するのは密かな楽しみ。左手の薬指に残る指輪の跡は、理由を考えようとすると脳が拒絶反応を起こすけれど……。 寝ても覚めても、彼が私の、一番の観察対象。だから、「病院を出て、空気のいいところでゆっくり暮らしてみない
『大きなリビング』からテラスへと出られる窓は、開け放たれていた。半分だけ屋根がある広いテラスには、朝食の支度が整っている。晧司さんは、柔らかな椅子に私をそっと下ろした。彼は、向かい側ではなく私の右隣。 七月上旬の光は強いけれど、適度に日陰ができる造りなのであまり気にならない。水面を渡るそよ風は涼気を含んでいる。 「気持ちいい……」 ほぅ、と息をついて、コーヒーのポットに手を伸ばした。晧司さんのカップを引き寄せ、ゆっくり注ぐ。彼は何か言いかけたけれど、黙って待ってくれた。ん……重いけど、大丈夫。ポットを置くと「ありがとう」と温かな声。彼はお返しにと、私にカフェオレを作ってくれた。飲み物がそろったところで、食事が始まった。 「いただきます」 「いただきます。……どうかな?」 「おいしいです、とっても!」 フレッシュな野菜とハムのサンドイッチ。チキンサラダに、私が好きなゆで加減の卵に、コーンスープ。どれも素材の味が生きている。 「握力も食欲も、もうほとんど元通りだ。よく頑張ったね」 「晧司さんのおかげです。私が目を覚ましてから三か月、毎日リハビリに付き添ってくださって。その前も、退院してからも、こんなに……本当にありがとうございます」 「私は、自分がしたいからしているだけだよ」 彼は、私が眠り続けていた三か月の間も、親族としてめんどうを見てくれた。寝たきりで低下していた筋力が順調に回復してきたのも、彼が毎日、献身的に世話をしてくれたからだと、お医者様から聞いている。腕も足も、弱らないようにと少しずつ動かしてくれていた。毎日、毎日……。事故で意識を失い、一向に目を開けず、一生そのままかもしれないとさえ言われた私のために。 どこからともなく意識が浮上し、自分が何者なのかもわからず、混乱して縋るように目を開けた時、彼の手が私の指先を包んでいた。驚いて目を見開いた彼が「リン……? 私だ。わかるか? リン!」と呼んだ。それで、私は自分の名を知った。あの瞬間から始まった三か月と半月が、私の記憶のすべて。 意識を取り戻した私は、彼の瞳に浮かんだ光を打ち砕いてしまった。声は出なかったけれど、唇が「誰?」と動いた。「……自分の名は? 姓は」と震える声で聞かれ、答えられなかった。リンは鈴と書くことも、姓が天霧であることも、父方
「リン、食事の支度ができたよ」 低く、穏やかな声が私を呼ぶ。「はい、今行きます」「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あれから四か月にもなるんですよ」「まだ、四か月だね。正確には3か月半だ」 背を支えてくれる手。私がよろけたり、呼吸が苦しくなったりしないかと、注意深く見守る目。私より十五センチほど背が高くて、すらりとして逞しい。安心して寄りかかれる。長い足は、一人では速足なのに、私と歩く時は歩幅を合わせてくれる。顔を上げると必ず目が合うのは、いつも私を見ていてくれるから。 私の居室を出て、彼の寝室の前を通り、リビングへ。明るい朝日が差し込み、コーヒーのいい香りが漂っている。「今日もいいお天気」「梅雨明け宣言はないが、今年は早いのではと予想されているね。光で目が痛くはないかい?」「ええ。目は何ともないんですもの。……あ」「うん?」 晧司さんは私の視線を追った。リビングの階段を降りると、その先は『大きなリビング』。湖の上に張り出したテラスへと続く、この別荘の中でもとびきり素敵な場所。「テラスまで降りたい?」 遠慮がちに頷いた。駄目って言われるかな。でも、キラキラ光る水面を見ながら、晧司さんのおいしいお料理を食べたいな。 彼はちょっと思案してから、フッと笑った。わ、かっこいい。 見とれている間に、ふわっと抱き上げられた。お姫様抱っこ。緩くまとめたロングヘアが彼の腕にかかる。「晧司さん?」「では参りましょうか、姫」「え、あの……」「しっかりつかまって」「あ……はい」 おずおずと、肩に手をおいて首に手をまわす。病院からここへ移ってきた時も、ほかの時も、何度もこうして抱っこされた。そのたび、私でいいのかなっていう気持ちになる。十も年上の、よくは知らないけど大変な資産家だ